母と過ごした今年の誕生日
誕生日
私が48歳になった時、世間ではは私の誕生日のことを「テロの日」などと改名しました。
私の誕生日と半年経過した日に東日本大震災(2011/3/11)が起きました。
母と過ごした今年の誕生日
信濃町のK大学病院でCTの撮影を受けました。
その帰り京橋で彫刻家の友人が2年ぶりの個展を開いているので見てきました。
その足で東京駅から東海道線に乗り実家のある平塚に往きました。
母親に『生んでくれてありがとう』というためです。
ベッドでうたた寝していた母はぽわ~っと目覚め「なんだい今日はどうしたんだい?」「やあ今日は僕の誕生日だから顔を見に来た」と声をかけるとしっかり目覚め、起き抜けに息子から手を握られて『お母さん産んでくれてありがとう』と聴かされて、ちょっと照れながらも「どういたしまして」と答えました。
その後久しぶりに会った母としばし談笑しました。
「お産は軽かったよ」兄の時も妹の時もお産は軽かったとのことでした。
家系的にお産の軽い血筋のようです。
母の話はやがて私が小学校1年生の時の担任の先生が家庭訪問に来られた時のことを話し出しました。
それこそ400字詰め原稿用紙一枚くらいの内容の話なのですが6分近くかかって話します。
話ししていて人の名前を思い出そうとしたり経緯を思い出そうとしたりして、しばしばエンドレスのように話の始まりに戻るからです。
ボケているというのではないのですが、言葉を探しながら話そうとするたびに枕詞のように話の始まりへと戻るのです。
そのたびに私は、まるで今初めてその話の糸口を聴いているかのように「ふんふんそれで…」と聴き続けました。
話題は私より2歳年上の兄の思い出が混ざり込みまた本題に戻り・・・話し終えると「話が長くなってスイマセン」と笑いながら締めくくりました。
私は内心苦笑をこらえながらも「ふう~~ん、そんなことがあったんだぁ」と応じました。
母は来年米寿を迎えます。実家へは大概とんぼ返りで忙しなく帰省しては即帰るというパターンが多かったのでこの日は一泊しました。その日の夜は母の部屋で一緒に寝ました。
母は毎晩NHKの「ラジオ深夜便」の3時台の昭和歌謡を聴くことを何よりも楽しみにしています。
ポケットラジオはベッドの枕元に置かれ就寝時から朝までつけっぱなしにしています。
この部屋の電波の受信状況はポケットラジオを東西方向に向けておくとクリアーな音を受信できるのですが、彼女は今までの習慣で南北方向に向けて、枕元に起きます。ラジオの放送音には「シャーシャー」と微かですが雨降り音のような雑音が混入しています。アナログのポケットラジオです。ダイヤル調整の仕方によってはかなり繊細なところまで絞り込めるのですが、年寄りの指先はピンポイントのベストチューンの周辺を彷徨します。
夜中の2時ころ私がトイレに起き再び布団に入り、暫くうつらうつらしていると母はやおら起きてきて私の掛布団を調整してくれていました。「大丈夫だよ(だからもう寝てくださいの意)」と声がけしましたが、気の済むようにやっていました。それからまたうつらうつらしている私の耳にラジオの音量が上がったり下がったり聞こえてきます。
音量が大きすぎて息子の安眠の邪魔になってやしないかとおそらく気遣っているのでしょうが、思い通りの音量が定まらないものなのかボリュームは小さくなったかと思うとまた大きく戻ったりまた小さくなって、(うん、このくらいの音量が私にはちょうどいいぞ)と内心喜んでいますと、再び音量が上がったりを繰り返しています。まあ気が済むまでやってもらいましょうと思っているうちに私は爆睡しました。